日時 2024年9月7日(土)13:30~18:00
会場 龍谷大学深草キャンパス(和顔館4階・会議室3)+Zoomによるオンライン併用
→現在、深草キャンパスは大規模な改築工事を行っています。キャパスマップ20の「正門」からは入場できません。22「東門」から入ることをお勧めします。「和顔館」は「東門」から入って正面に見える建物です。
特集 徹底討論『家族会議』―「純粋小説論」再考―
研究集会では、これまで徹底討論の対象として「機械」、「春は馬車に乗つて」、「微笑」などを扱ってきた。今回は長編小説『家族会議』(一九三五)を取り上げたい。『家族会議』をめぐる問題は、主に三点ほどある。
第一に、「純粋小説論」発表直後に新聞に連載された純粋小説の実践であること。第二に、経済(株式相場)を正面に据えた、『上海』に続く経済小説であること。第三に、『上海』『紋章』などに萌芽していた民族(ナショナリズム)をめぐる問題と接続することである。これらは糾合する問題と捉えることもできる。多様な社会関係を織り込んだ「東京と大阪との戦争」という基本構図は、恋愛における自由と桎梏、物質と精神、知識階級と経済人(ホモ・エコノミクス)、西洋文明と日本精神といった問題系にも敷衍することができる。また、『家族会議』は横光作品としては珍しく映画化・TVドラマ化された作品であり、アダプテーションの観点から捉え返すことも可能である。
本特集では、三名の報告者に、それぞれの観点から問題を深めていただき、討論を尽くすことで、新たな作品理解の可能性を拓いていきたい。
「家族会議」再考―同時代文学における株式表象を視座として― 友添大貴(早稲田大学)
本発表は、横光利一「家族会議」(『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』朝刊、一九三五年八月九日〜一二月三一日)を、同時代の株式小説の流行とも呼べる文壇状況から再考するものである。本作はこれまで「純粋小説論」(一九三五年)の実践作として、あるいは島津保次郎による映画(一九三六年)からの視点など、多様な論点からの分析が試みられてきた。一方、東京兜町と大阪北浜の株式仲買人の争いを中心に展開される物語内容から、「家族会議」を経済小説の先駆とみなす視点も提出されている。たとえば、綾目広治は「おそらく経済小説の嚆矢は、横光利一の『家族会議』」であるとし、「時代の動向に敏感に反応する横光利一は、他の文学者たちに先んじて経済の動きと人間との関係を小説のテーマにした」と位置付ける(「経済小説」(『社会文学事典』、二〇〇七年一月、冬至書房))。こうした指摘から、先行研究においても作中の株式表象の検討が重ねられてきた。
本発表では上記の研究状況を踏まえながら、「家族会議」が新聞連載された一九三五年前後に、株式をモチーフにした小説が多数発表されていたという事実に注目する。具体的には、片岡鉄兵、小島政二郎、山本有三、久野豊彦らの諸作品を分析し、それらの作品の中で株式というモチーフがどのように描かれているのかを横断的に検討する。またあわせて、「家族会議」発表当時の経済社会状況も視野に入れたい。本発表は、「家族会議」を株式小説の流行という同時代状況に置き直すことを通して、経済小説の先駆あるいは株式というモチーフを採用した特異な作品という「家族会議」の評価を問い直し、さらには作中描かれる株式市場の機能を同時代の文脈から再考することを目指す。
「家族会議」論―文芸復興論争の帰結として― 中川智寛(東海学園大学)
横光利一の長篇小説「家族会議」(昭10・8~12)を再検討する。「家族会議」は、発表時期が「純粋小説論」の後であるとはいえ、その文 学論の話題性が、横光内外共に尚濃い中に連載されたものと考えられる。①新聞小説としての要素、②文芸復興論争、及び「純粋小説論」の影響圏としての要素、③東京対大阪という図式性という要素、という三点に絞り、重要本文や先行研究を振り返りながら、再検討の余地を模索する。これら三つの要素は、勿論、個別に屹立しているわけではなく、相互に連関し合っているというのが、大方に共通される読解だと考えられるからである。
尚、本文の異同についても論及される事の多い「家族会議」だが、本発表では、河出書房新社版の定本全集を使用する。
「家族会議」論―アダプテーションの観点から― 中村梨恵子(同志社大学大学院)
「家族会議」は、横光による新聞連載小説(『大阪毎日』『東京日日』、一九三五年八月九日~一二月三一日)であり、一九三六年四月には監督の島津保次郎と脚本家の池田忠雄等によって映画化された。同年一月には非凡閣版全集の一巻に収録されており、映画化を挟んだ一九三八年一二月に『創元選書』へ再録される際には横光による本文の改訂がなされている。先行論では、新聞小説としての可能性に加え、発声映画としての音声・映像表現の分析や原作との比較検討も進められており(島村健司・二〇〇三、三芳つかさ・二〇一九)、これらの論考では映画化を踏まえて小説内の主題や表現手法の再評価も試みられている。本発表では映画における表現の変化に始まり、映画化を契機に提示された監督や脚本家の解釈と、再録時の改訂に見られる横光自身による作品の主題と構図の強化を参照し、新聞連載から映画、本文改訂へと変動する表象とそれらを通底する読解可能性を模索する。
従来、映画版において池島忍が前景化されていることが度々指摘されてきた。恋心を押し隠しながら高之と泰子との仲を取り持つ苦しみや葛藤が視聴者の同情や共感を誘うばかりではなく、忍を演じた高杉早苗自身が証言するように、「自由で豪奢な」モダンガールらしい姿は、当時の女性の憧れであり映画に華を添えていた。このような映画化に際する変化は「家族会議」の中心的主題の一つである株式の変動と男女の心理模様の表出に対する試みとして評価されて良いのではないだろうか。清楚で控えめな和装女性の泰子と、華やかな洋装の近代的女性である忍との対照が視覚的に強化されたことは、彼女たちの振る舞いや生き方、その幸福の行方へと視聴者の注意を促す。愛する男性と結ばれていく泰子に対し、最後にはその陰で涙を流す忍だが、彼女が株の売買で得た金銭で高之の家財と店を買い取り高之と二人で雇い主と番頭のように戯れてみせる場面では、心理的な接近、動揺、確かな人間関係の変化が描かれている。映画「家族会議」における株式と心理の関連を体現する役割を果たしている彼女の表象を中心に、新聞連載時から再録時に至る本文の変化に目を向けることで、映画というメディア化を契機に起こる「家族会議」のテクストの変動を捉えていきたい。