横光利一文学会
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   第10回研究集会 川端文学研究会との合同研究会
2009年 8月 29日 (土)  13:30〜
東洋大学白山キャンパス

特集: 横光利一と川端康成―『文芸時代』創刊まで―

◇研究発表

  • 重松恵美 横光利一の西洋文学受容 ―一九一〇年代について―
     作家・横光利一の精神形成期といえる一九一〇年代の読書歴について、特に翻訳書による西洋文学・思想の受容について考察する。基本資料とするのは、横光「ストリンドベルヒと鰻」(一九二五年)および、今鷹瓊太郎「横光利一の思い出」(一九六九年)である。これらで言及されるワイルド、ザイツェフ、アンドレーエフ、シュティルナー、吉江孤雁、昇曙夢らを考察の対象とする。
     まずは、具体的な作品の影響関係について考察する。第一に、ワイルド「サロメ」(アカギ叢書第八編、一九一四年)と横光「日輪」(一九二三年)の比較検討を、第二に、ザイツェフ「姉」(海外文芸叢書第二編『心の扉』一九一三年)と横光「御身」(一九二四年)ほか姉弟ものの比較検討を行なう。
     さらに、一九一〇年代の横光の濫読の中からどのような傾向が見出だせるのか、早稲田人脈によるロシア文学の翻訳・紹介を軸に考えてみたい。三重県立第三中学校英語教員・島村嘉一の早稲田での同期生・中村星湖や、一年上級の相馬御風、二年上級の吉江孤雁など英文科卒で露文翻訳に携わった人々や、早稲田で露語露文学を講じた昇曙夢らを考察の対象とする。
  • 佐山美佳 横光利一の早稲田大学時代 ―吉田絃二郎という〈門〉を通過して― 
     大正五年四月、早稲田大学高等予科英文科に入学した横光は、長期欠席や学費未納などが原因で除籍・編入・転入を繰り返し、大正十年に除籍となっている。大正七年四月以降については、中山義秀や吉田一穂らの小説や回想から文学青年としての横光像をうかがうことができるが、入学後一、二年の様子は明らかでない。しかし由良哲次は、早稲田大学の講師兼新進作家であった吉田絃二郎に心酔する横光の姿を記憶している。詩的な熱弁によって「恋愛や芭蕉や歎異抄やマアカス・オーレリウスや永遠やキリスト」(井伏鱒二の回想)を講じて学生たちを魅了したという絃二郎から、横光も多くを学んだと考えられる。大正十三年八月、横光は『文芸春秋』に発表した随筆「門」(「肉感」より)のなかで、絃二郎の「純情の気高き深さ」を賞賛しつつ、人生の入口に「門」を建てて吉田絃二郎と称するが良いと述べている。また、習作期の草稿「悲しみの代価」「姉弟」からは、絃二郎文学に通じるリリカルな表現や人生観が看取され、横光が文学観を形成していく過程において、この〈門〉の通過は重要な意味を持っていたといえよう。他方、朋友川端康成は、絃二郎の小説について「読んでゐる方で恥しくなつて、眼を外したくなる」ほど「下らない作品」と酷評しており、横光との評価の相違が興味深い。本発表では、絃二郎に着目しながら横光のいわゆる「空白の二年間」をあぶり出し、その後の川端との出会いや新感覚派としての出発にどう接続してゆくのかを考察したい。
  • 福田淳子 川端康成における文学活動始動期の考察―菊池寛との関係を中心に―  
     川端の上京(大正六年三月)から「文藝時代」創刊(大正十三年十月)までの期間における交友関係および師弟関係を改めて整理し、文壇出発期の文学状況を捉え直すことを本発表の目的とする。習作期を経て文学活動を始動させようとしていたこの時期に、自身の内部では孤児意識と婚約破棄問題とが絡み合い、これらを小説化しようともがき苦しんでいたことは日記から明らかである。一高時代の伊豆行きがそれらのフィクション化に大きな役割を果たし、また帝大時代の浅草や本郷住まいが彼の文学の下地を形成して行く。一方、従兄の紹介で上京直後に新進作家南部修太郎を訪ねたことは文学への大きな一歩を意味し、また学友に今東光を紹介され、その父を通して心霊学を知るなど、確実に世界を広げつつあった。中でも大正九年、第六次「新思潮」発行のために菊池寛を訪ねたことが、川端の人生を左右する大きな契機となったことは言うまでもない。その約一年後、菊池に横光を紹介されることになるが、ちょうどこの時期に川端は菊池の代作をしていた。代作問題については既に片山宏行・福田淳子が指摘しているが、川端の文学始動にどの程度の役割を果たしていたのかなど、新たな側面から調査を進め、考察したい。
  • 片山倫太郎 若き日の川端における思想関連文献の受容の脈絡を探る―変態心理、神秘主義、哲学、美学等―
     先学に導かれる形で、これまで私は川端の受容した文献を探る試みをおこなってきたが、たとえば新感覚派理論の裏付けとなるものや、『海の火祭』『抒情歌』などに引用される文献などをいくつか発掘することができた。探り当てたものはいまだ少数ながらも、それらの多くは高等学校から大学にかけて受容されたと見える。その時代の日記、ノート類の記録が、受容文献を探索する際に有益な手掛かりとなったからである。大正六年九月の第一高等学校入学から大正十三年三月の東京帝国大学卒業までの六年半は、川端にとって小説家として出世するための苦闘と苦悶の時代であったが、同時に、広範な書籍から様々な知識を吸収しようとする多読と努力の時代でもあったことも、若き日の記録からは知ることができる。本発表では、こうした若き日に受容された思想関連文献をいくつか提供したいと思う。後の川端文学を生成することに繋がる事例だけでなく、若き日の苦闘のありようを例示するものも含めて取り上げたい。その際、文献の受容を時系列に沿って並べ直すことを考えている。伝記的観点を勘案することで、それらの受容形態になにがしかの脈絡が見いだせるのではないかという予想からである。
  • ディスカッサント(横光サイド) 黒田大河 
  • ディスカッサント(川端サイド) 田村嘉勝 

【特集の趣旨】

 横光、川端の両文学研究はこれまで個別に進展してきましたが、両者を関連づけて論じるという観点は希薄であったと思われます。合同研究会を開催する意義はここにあるわけですが、しかし、作家別に研究のおこなわれている現状では、各研究者が専門外の作家を熟知しているとは必ずしも言えません。したがって、まずは両作家に纏わる情報を互いに共有するところから、合同研究をスタートさせたいと考えました。また、両研究会は今後とも合同研究を継続させていくという方針も確認されましたので、時期やテーマを絞った形で第1回を開催したいと思います。
 両作家の交流は、大正十年秋に菊池寛を介して始まったとされていますが、その前後の両作家を取り巻く文学的な環境というものは、同世代であったと言っても、異質な点も数多くあったように思われます。読書歴、出身大学、交友関係、生活のありようなどから見いだされる文学的な方向性というものは、必ずしも一致していなかったように思われます。それゆえ、たとえば上京後から「文芸時代」創刊まで(大正十三年十月まで)を一つの区切りとして、両作家の文学的、文壇的な環境に関する実証的な情報を持ち寄り、研究会の会場においてこれらを照らし合わせることで、新しい発見や認識の深化が期待できるのではないかと考えました。
 時期やテーマについては厳密に定めるものではありませんが、できるかぎりこの主旨に則っていただければ、生産的な討議ができるのではないかと考えます。また、発表者は特別に新資料を発掘し、提示する必要もないと思います。両作家に関する研究の集積を提示し、知識を共有するだけでも、十分に意義のあることと思われます。
 当初は、作品に関する解釈や論考を主とした合同研究の方向も考えました。しかしながら、多様な文学理論が並立する現在において、会場の研究者が共有し、討議できるテーマは、まずは実証的な情報であると考えました。今後、合同研究会が回を重ねる中で、作品研究などがなされていくことを期待しております。(文責・片山倫太郎)