横光利一文学会
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   第8回大会  日本近代文学会・東海支部との合同開催
2009年 3月 15日 (日)  13:30〜
愛知淑徳大学星が丘キャンパス
◇研究発表
  • 教誓悠人 (広島大学院生) 「或る長編」「上海」研究 ―「海港章」〈七〉、改造社版〈四四〉削除の理由
     今日までに、「上海」に関する数多くの研究が蓄積されている。しかし、昭和三年から昭和十年までの横光の変遷を考慮にいれると、この長篇小説を単一の小説として処理することには留保が必要である。「改造」に連載された「或る長篇」から、改造社版「上海」を経て、書物展望社版「上海」に至るまでの、改稿と再構成の過程を丹念に読み解いてゆき、この長篇がどのように書き継がれていったか、その過程と横光の変遷とがどのように関係しあっているか、という二点を解明してゆく必要がある。
     今回は、「或る長篇」の「海港章」〈七〉、改造社版〈四四〉に対応する章が、決定版では削除されたことに着目した。先行研究は削除理由をいまだ明らかにできていない。しかし、横光が当該章の削除を経て、書物展望社版「上海」を〈決定版〉とした過程に鑑みると、この点は極めて重要な問題であり、理由を解明しなければならない。本発表はこの点について、登場人物参木による自己表象の言説と、地の文の細かい訂正とを元に、考察、解明するものである。

特集: モダニズムの土壌を問いなおす

◇シンポジウム
  • 竹内瑞穂 (名古屋大学院生) 〈未完〉のモダン都市・名古屋 ―『新愛知』におけるプロレタリア文学評論とモダニズム
     一九三〇年一〇月一〇日、名古屋の日刊紙『新愛知』は「大名古屋市人口百万祝賀記念号」と題し、名古屋が「押しも押されぬ全国第三位の大都市たる外形と内容を兼ね備へた」ことを宣言している。実際に名古屋が百万都市化するのは、一九三四年であり、結果的には完全な勇み足であったのだが、当時の名古屋に満ちる高揚感がみてとれよう。
     こうした都市の発展を背景に、紙勢を拡大してゆく『新愛知』であったが、興味深いことに、その紙面で最も質・量ともに充実していたのは、政治欄でも経済欄でもなく、プロレタリア文学評論を中心とした文芸欄であった。ところが、そもそも『新愛知』は政友会支持を明確に打ち出した保守的な政治色の強い新聞であり、その元来の主張と、プロ文評論にあらわれる左翼的アジテーションとはあまりに隔たりが大きい。つまり、ここから推察できるのは、『新愛知』にはその強い政治性を黙許してでも、プロレタリア文学をめぐる議論を紙上に引き込む必要、あるいは利点があったということである。
     本発表では、この『新愛知』のプロ文評論の隆盛という出来事の意味を、同時期の紙面におけるエロ・グロ・ナンセンス記事の台頭という動向を補助線としながら解明することを目指す。昭和初期という時代において、〈文学〉と〈地方マスメディア〉と〈モダニズム〉という三つの要素がいかに絡まり合い、そこから何が見いだされようとしていたのかを探ってみたい。
  • 馬場伸彦 (甲南女子大学) 春山行夫とその周辺 ―名古屋のモダニズム「土壌」を再読する
     戦前名古屋において開花した「新しい芸術」の担い手を挙げれば、エリュアールやブルトンらと直接交流を結びシュルレアリスム運動の詩人として知られる山中散生、フォルマリスムの理論家であり詩人の春山行夫、モンタージュ的手法を援用し映画詩の実験を試みた詩人の折戸堀夫、画家であり写真家としても活躍した下郷羊雄や山本悍右、「新興写真」の理論家として知られた坂田稔、前衛詩から考現学、造本や挿絵に至る多彩な創作活動を続けた亀山巌など枚挙に暇がないほどである。
     戦間期の名古屋に他の地方都市には類が見られないほど数多くのモダニズム芸術家が排出した理由とは何か。それらは地方都市に偶然に生まれた潮流であったのか。或いは、産業都市として伸張する「モダン都市」の風土性が胚胎させたものであったのか。本報告では、春山を中心に戦間期における「モダン都市名古屋」の「土壌」を検討する。
  • 中村三春 (北海道大学) レトリカル・モダニズム ―久野豊彦と横光利一
     二〇世紀前半の世界アヴァンギャルド文芸には、「自由語」(イタリア未来派)、「ザーウミ」(ロシア・アヴァンギャルド)、「音響詩」(ダダイズム)、「自動筆記」(シュルレアリスム)など、相互に共通の言語的特徴が認められる。日本のモダニストも、日本語の伝統と革新のバランスの上に、詩と散文とを横断して、独特の文芸言語を開発した。その様式は、これら海外からの波にあおられた一九一〇および二〇年代諸作家の暗中模索によって多方向から培養され、結句、前衛的水準においては久野豊彦、文芸思潮史的インパクトにおいては横光利一によって極点にまで高められた。
     一般に一九三〇年の新興芸術派の代表格と見なされる久野は、実際にはつとに一九二三年から『葡萄園』を拠点に前衛作品を発表し、一挙に様式的完成にまで導かれた先駆者であった。私の発表では、久野の短編集『第二のレェニン』『聯想の暴風』『ボール紙の皇帝万歳』と、横光の新感覚派時代の諸作品、特に『上海』までの業績を材料として、モダニズムの活動が、どのように言語の限界線を更新したのか、その歴史と本質を論じてみたい。言葉は、世界を拓くのである。
(司会)二瓶浩明 (愛知県立芸術大学)
【シンポジウムの趣旨】
 モダニティの原理のひとつは、たえずシステムを更新しつづけることにあります。そこでは行為や慣習をつねに修正していく「再帰的モニタリング」(A・ギデンズ)が働いています。必然的にモダニズムは、時間的・空間的な連続性を切断し、それ自体として稼働する抽象的システムに接近するようにみえます。
 日本の一九二〇年代前後に発生したモダニズム文芸も、そうした傾向と無縁ではありませんでした。とくにその傾向は、資本が生みだす都市のダイナミズムと結びつき、前衛(アヴァンギャルド)や新精神(レスプリ・ヌーボー)を志向するさまざまな言語実験を準備しました。しかし、そうしたモダニズム文芸も、それを培養した「土壌」を否定することはできません。
 ここでいう「土壌」は、比喩的な意味をもちます。ひとつには、下部構造の意味があります。モダニズムが成立するには歴史的な諸条件が必要となります。なかでも都市の成立は欠かせません。「東海」というトポスを考えるなら、名古屋という都市と、そこに成育した「名古屋モダニズム」に注目する必要があります。むろん世界的共時性における内外の都市との関係を視野に入れたうえでです。
 つぎに、ものごとを生み育てる基盤という意味もあります。ここではとくに詩と散文の関係に注目したいと考えます。モダニズム文芸の「土壌」として、詩の果たした役割は大きく、「東海」は春山行夫や佐藤一英といった、横光利一と深い関係にある詩人たちを生みだしたトポスでもあります。それぞれの直接的な交流はもちろん、詩と散文との影響関係についても細かく割って吟味してみたいと考えます。(そこに俳句や短歌といった伝統的なジャンルを組み込むことも可能でしょう。)
 モダニズムの「土壌」を問いなおすことは、モダニズム文芸の積極的な再評価をうながすとともに、モダンさえも終わったとされるポストモダン社会を生きる私たちの原点を再考する絶好の機会になるのではないでしょうか。
   第8回大会  日本近代文学会・東海支部との合同開催
2009年 3月 15日 (日) 
愛知淑徳大学星が丘キャンパス
詳細は近日中にお知らせいたします。