横光利一文学会
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   第9回研究集会 共催・立命館大学国際言語文化研究所
2008年 8月 30日 (土)  13:30
立命館大学・衣笠キャンパス・創思館

特集: 東アジアネットワークのなかの横光利一

【企画趣旨】
 横光利一の生きた時代は、帝国日本の植民地的拡大の時代でした。同化政策を通じてなされた「国民化」という名の植民地主義は、東アジア諸地域の近代化に複雑な痕跡を残しました。日本近代文学が「国語」を通じて国民国家の統合を作り出したことは、その過程と無関係ではありません。本特集は東アジア諸地域における文学的表現と日本近代文学との共振について、横光利一を参照軸として考察することを目的とします。「東アジアネットワーク」という問題設定は、一国文学史の枠組みを越えて言語、文学、文化の交通を検証する有効な方法となるでしょう。
 たとえば佐野正人氏は、上海・京城・東京というモダン都市のネットワークに注目し、なかでも横光にインスパイアされながら、韓国語のシンタクスを破壊するモダニズム詩を書いた李箱の「脱・植民地主義的なあり方」(「一九三〇年・東京・上海・京城」)に注目しています。帝国日本の「国語」による支配とそれへの反発という単線的な理解ではなく、日本語による創作活動を媒介として自らの言語を掘り下げてゆく表現者たちの試みは、脱植民地的な表現のあり方を示唆していると言えるでしょう。
 こうしたケースは、上海において横光テクストの翻訳から創作を開始した台湾出身のモダニズム詩人・劉吶鴎、「中国新感覚派の聖手」と目された穆時英、横光に直接学んで作家活動を展開した巫永福などについてもいえるかもしれません。いっぽう、かつて「国語との不逞極まる血戦」を生きた横光利一が、母語ではない「国語」を選び取っていった詩人・金鍾漢を評価したことは、「国語への服従時代」を暗示するのでしょうか、それともそこにある種の越境の可能性を見ることができるのでしょうか。いくつもの課題が私たちに残されています。
 今回の特集では、東アジア諸地域の表現者と横光テクストとの、個別具体的な共振のプロセスを確認しあうとともに、上海という植民地都市におけるさまざまなネットワークを検証することで、一国文学史では捉えきれない言語表現の可能性/不可能性を問題にしたいと考えます。
◇研究発表
  • 劉 妍 (神戸大学大学院) 劉吶鴎と横光利一とのあいだ—「中国新感覚派」の可能性
     一九二〇年代末から三〇年代の上海に、中国初のモダニズム文学と呼ばれる「中国新感覚派」が活躍した。これは日本の新感覚派に共振した文学運動だが、その相互関係については、影響説、模倣説、移植説など未だに揺れ動いている。しかし、横光利一が中国新感覚派に新しい表現の可能性を与えたことは確かだろう。
    中国新感覚派の中心にいた劉吶鴎(一九〇五—一九四〇)は、横光利一の「七階の運動」をふくむ作品集『色情文化』(一九二八)を翻訳出版するが、新感覚派の特徴を「現代日本の資本主義社会の腐敗した不健全な生活を描写し、来るべき社会に対する暗示を投げ掛けている」と紹介している。また自らも創作にはげみ、のちに『都市風景線』(一九三〇)をまとめるが、そこに収められた短編には、明らかに日本の新感覚派に共通する周波数を確認することができる。彼は「横光利一は新感覚派の第一代、自分は第二代、穆時英は第三代」と横光利一の影響に言及している。
     台湾の富裕層に生まれ、母語(閩南語)、日本語、フランス語、中国語(北京語)のあいだを移動した劉吶鴎にとって、新感覚派文学とは何だったのか。横光利一との差異にもこだわりながら考察したい。
  • 謝惠貞 (東京大学大学院) 横光利一とその直弟子・巫永福—明治大学文芸科時代を手かがりに
     巫永福(ふ・えいふく、一九一三〜)は一九三〇年代に『フォルモサ』という台湾最初の日本語純文芸雑誌を創刊し、近年まで文筆活動を行ってき、「台湾文学の過去を知り尽くしている」と高く評価されている。戦前台湾の評論家であった劉捷(りゅうしょう)は、当時中央(日本)文壇に我が台湾の張赫宙として送り出せるのは巫ら四人のうちの一人であると信じていた。この張赫宙は一九三二年四月「餓鬼道」で『改造』の懸賞に当選し、日本文壇にデビューした最初の植民地出身作家である。
     また日本教育を受けた作家林亨泰(りん・こうたい)は「日本文学の流れにおいてこそ巫の真なる価値が見えてくる」と語った。同時に、巫は「横光は直接私の創作を指導してくれた先生である」、「私の小説創作は彼の影響を受けたのだ」と横光からの影響を自ら語っている。
     しかし残念ながら、巫の戦前小説の評価は、先行研究では漠然とした影響関係の指摘に止まっている。そこで本論では、明治大学や台湾埔里にある巫永福文庫の調査をし、巫が横光利一を含む明大文芸科教師陣経由で受けた昭和初年代日本西洋文芸思潮の影響を解明しようと思う。それを通して、台湾における横光利一受容の一様相を描きたい。
  • 李錦宰 (南ソウル大学) 李箱と横光利一の異国体験—1936年を中心に
     韓国を代表するモダニズム文学者・李箱(イ・サン、一九一〇—一九三七)が、横光利一の文学を意識していたことは確かである。李箱の作品のなかには、横光の名前が直接出てきたり、作品の一節がパロディ化されたりしている。それだけでなく横光が駆使したフォルマリズム的技巧や「機械」などの新心理主義的スタイルの影響も強く認められる。まず両者の同時代性について再確認してみたい。
     しかし両者には、非対称性も認められる。それを仮に「内なる国境」意識の差異と呼んでみたい。「内なる国境」とは、物理的な国境線ではなく、アイデンティティにかかわる自意識のカテゴリーである。一九三六年、横光はヨーロッパへ、李箱は東京へ旅立つ。横光文学にはヨーロッパ、特にフランスという都市が、李箱文学には東京という都市がそれぞれ鏡の役割を果たしていて、「近代ヨーロッパ」と「近代日本」、「近代日本」と「近代韓国」がそれぞれ比較考量されている。
     横光の「欧洲紀行」と『旅愁』、李箱の「東京」と『失花』などを取り上げながら、二人の作家における一九三六年の異国体験の差異、および「内なる国境」意識の非対称性について考察してみたい。
◇コロキアム 鄔其山 ・ Lyceum ・ 上海ゲットー
  • ゲストスピーカー  大橋毅彦 (関西学院大学)
    「東アジアネットワークのなかの横光利一」という企画趣旨に何かしら寄与しうる話題はないかと頭を悩ました結果、現時点ではこんな三題噺的なテーマを掲げさせていただこうと思う。一九二〇年代後半から四〇年代前半、すなわち租界都市としての爛熟期を経て日本の軍政が敷かれていった時期までの東アジアの国際都市上海において、どのような文化上のネットワークがその時々の時代の刻印を帯びて浮上してくるかを考えてみたとき、タイトルに掲げたこの三つのものが、その点を集約化して現わしてくれそうに思う。
     虹口日本人街の内山書店、フランス租界ジョッフル路近くのライシャム劇場、上海のイーストエンド楊樹浦に設置された上海ゲットーで展開される文化の交差は、横光のテクストや上海の外にある場所も巻き込んで、それぞれどんな輝きと陰翳を帯びるものとなっていくのか。当時現地で出版されていた同人雑誌や新聞記事も活用しながら、その一端に触れたい。
  • ディスカッサント  金 泰■(■は日+景) (高麗大学)
  • ディスカッサント  崔 真碩 (東京大学大学院)
  • コーディネーター  中川成美 (立命館大学)
(注)一部案内したものと異なります。こちらが最終確定したものです。