第8回研究集会
2007年8月25日(土) 13:30開始予定
宇佐市民図書館
特集:横光利一と父祖の表象
◇研究発表
  • 姜素英  横光利一の父と朝鮮―「青い石を拾ってから」と「青い大尉」を中心に
  •  鉄道工事の請負業者だったらしい横光の父・梅次郎は日露戦争が始まった年の一九〇四年六月に軍事鉄道工事のため、朝鮮に行った。土木工事の技術者として鉄道敷設を終え日本に戻ったらしいが、その後も二度ほど朝鮮へ渡り、一九二二年八月二九日に朝鮮の「京城」黄金町で五五歳で脳溢血のため、死亡した(『横光利一事典』おうふう、2002、p. 35)。
     この頃は、日本人が朝鮮へ移住することは、九州と北海道へ引っ越すという感覚に近くなっていた。外形的に一九二〇年代には東京と「京城」が共通の時代感覚の中で都市的成熟を示していた。特に黄金町は代表的な日本人の町として造成された所だった。
     「青い石を拾ってから」(『時流』1925.3)と「青い大尉」(『黒潮』1927.1)は一九二二年、横光が母とともに父の死を迎えに渡鮮したことに材を得ており、一九一〇年「朝鮮併合」による植民地支配の状況を明確に刻み込んだ作品である。川端康成は「横光氏の作品としては、全く珍しい「私小説」」と評しており、横光は主人公「私」に自分を託して書いたと見られる。
     本発表では、私小説としての「青い石を拾ってから」と「青い大尉」を中心として、「京城」における横光の父の姿を考察していきたい。

◇特集:横光利一と父祖の表象
  • 松寿 敬  横光利一と父・梅次郎
  •  横光利一の父・梅次郎についてはまだまだ不明なことが多い。現存する写真がたった一枚。鉄道のトンネル工事や疎水工事に携わったらしいが、土木請負業と書かれたり、測量技師と推測する人もいて、仕事の実態さえ定かではない。
     ところで、宇佐の先人に南一郎平がいる。幕末から明治にかけて活躍した水路技術者で、地元の水利事業に尽力。その腕を買われ、松方正義に乞われて内務省の技師となり、全国の疎水事業建設に従事した。のちに梅次郎も関わったとされる安積疏水、那須疎水、琵琶湖疎水はいずれもこの南一郎平が基礎を築き、「明治三大疎水の父」「日本の疎水事業の父」と称された。明治期に入り鉄道敷設が本格化すると、民営の会社を創ってトンネル工事もてがけている。南一郎平と横光梅次郎の接点ははっきりしないが、その種の技術者や労働力を生み出す環境が宇佐に形成されていたのだろうか。
     横光利一は自分の過去を語ることの少ない作家だと思う。しかし、父母を描いた習作があり、父の死を扱った短編もある。「旅愁」には、主人公・矢代の父親を描いて梅次郎を彷彿とさせる記述も少なくない。それらを併せ読みながら、父祖の地・宇佐で横光利一と父・梅次郎について改めて考えてみたい。

  • 河田和子  『旅愁』における父祖の表象と古神道
  •  『旅愁』は、戦後大幅に書き換えられており、戦後版テクストでは、古神道の「神のお言葉」が「父祖の言葉」に改変されている。そこからも戦中横光が傾倒した古神道は、祖先崇拝的性格の強いものであることが見て取れるが、何故横光は、そうした古神道を思案したのか。そこにラフカディオ・ヘルンの『神国日本』の影響があることに着目したい。『旅愁』において、大友宗麟の大砲により矢代の父祖の城や菩提寺が焼かれたとする記述も、史実と異なるのだが、『神国日本』に依拠した上で虚構されている。
     『旅愁』では、矢代が、キリスト教と科学によって滅んだとされる戦国時代の先祖とともに、欧化主義の明治を生きた世代として父が意識される。父祖や伝統が顧みられるようになるのも、日本の近代化に対する省察がなされたことにある。横光の古神道には、西洋由来の思想や文化を吸収同化して、新たな日本の伝統、思想的原理を創出しようとする志向が見られるが、それは同時代の思想的動向とどういう関係にあったのか、保田與重郎らの父祖の認識とも比較してみたい。
     今回の発表では、『旅愁』(戦前版)を中心に『神国日本』の影響を見ていき、父祖の伝統がどのように意識されて古神道が思案されたのかを考証する。同時代の文学者の父祖の認識も視野に入れて検討することで、近代の超克の問題にも言及することになろう。

  • 野坂昭雄   『旅愁』と昭和十年前後の〈父〉の表象
  •  保田與重郎は「童女征欧の賦」(『コギト』一九三六・三)において、一九三六年にドイツで開催された冬季オリンピック(ガルミッシュ・バルテンキルヘン冬季大会)に出場する稲田悦子について触れている。その中に、ドイツに「父の光治郎氏がゆくときいたとき、僕はひとごとならず安心したのである。」と記した保田は、同じ文章で「日本の文芸が父に連れられて初の門出するのはいつのことか。俗吏の手びきでない、外交官の案内でもない、ありがたく肉親の愛情の父につれられてその初の訪欧行の賦をなしうる日はいつのことか。」とも述べている。この記述は、保田にとって日本(文学)と西洋との関係は〈父〉のイメージで語られるべきであり、また西洋的伝統の厚みに拮抗するような日本の歴史の重層性や体系性を表象する存在として〈父〉が要請されているということを示していよう。
     当然のことながら、ここには「男は外/女は内」というジェンダー的機制が存在しているように見える。また、井口時男が夙に論じているように、保田が日本の伝統文化への傾斜を深めていく過程では、女性(あるいは母)の表象が彼のイロニーと深く結びついていた。しかし、そうした保田の態度は、むしろモダニズムの中でジェンダーそのものが曖昧になっていたことへの抵抗とも受け取れるだろう。
     横光の『旅愁』の場合も、同時代のコンテクストを考えると、〈父〉的表象は複雑な様相を呈してくるだろう。本発表では、この作品にしばしば指摘される日本回帰の文脈と、〈父〉の表象との接点を考察することで、昭和十年頃の西洋/日本(東洋)の関係性をめぐる広範で複雑な問題を提示したものとして『旅愁』をとらえたい。また、その過程で「純粋小説論」や形式主義論争との接続も目指したい。

【企画の趣旨】
 横光利一は、父や先行世代をどうみていたのか。利一の父・梅次郎[1867-1922]は、豊前(宇佐)の人で、夏目漱石、正岡子規、幸田露伴らとおなじ慶応3年生まれ。「近代日本」の基礎をつくった明治第一世代に属する。しかし、その生涯は空白がおおく、鉄道やトンネルの土木工事で各地を転々とし、朝鮮京城府で客死したことぐらいしか分かっていない。
 そこでこの特集では、父・梅次郎に注目しつつ、横光利一のテクストに刻印された「父祖」の表象を吟味し、その文学的、思想的意味について議論したい。ここでいう「父祖」とは、せまい血縁関係を意味しない。それを意識するものがフィクショナルに構成する原理や機制のようなものまで含意している。
この問いかけをつうじて、横光利一が「父祖」たちの体現した「近代日本」にいかに対峙したかを明らかにできればと思う。具体的には、以下のような視座を設定する。
(1) 父・梅次郎の生涯/年譜をできるだけ浮かびあがらせる。同時代コンテクストにも注目する。
(2) 横光利一の全集から、「父祖」にかんする記述を拾いだし、その内実を吟味する。
(3) 横光の「近代日本」にかんする認識を、同時代の文学者と対比させて測定する。
(4) 昭和10年代の文学動向と「父祖の表象」との関係を問いなおす。

「横光利一における父祖の表象」 掲示板
この掲示板は、第八回研究集会をアシストするために開設されました。以下の趣旨に賛同される方は、自由にコメントを書き込んでください。当日のディスカッションの参考にさせていただきます。
特集のテーマは、「横光利一における父祖の表象」です。横光利一の父・梅次郎[1867-1922]は、豊前(宇佐)の人で、夏目漱石、正岡子規、幸田露伴らとおなじ慶応3年生まれ。「近代日本」の基礎をつくった明治第一世代に属します。しかし、その生涯は空白がおおく、鉄道やトンネルの土木工事で各地を転々とし、朝鮮京城府で客死したことぐらいしか分かっていません。
そこでこの特集では、父・梅次郎に注目しつつ、横光利一のテクストに刻印された「父祖」の表象を吟味し、その文学的、思想的意味について議論したいと思います。ここでいう「父祖」とは、せまい血縁関係を意味しません。それを意識するものがフィクショナルに構成する「原理」や「機制」のようなものも含意します。この問いかけをつうじて、横光利一が「父祖」たちの体現した「近代日本」にいかに対峙したかを明らかにできればと思います。
具体的には、以下のような情報を求めます。
(1) 父・梅次郎の生涯。――履歴、職業、性向など、なんでも構いません。先行研究も視野にいれます。また同時代コンテクストにも注目します。→文字色「red」を選択。
(2) 横光利一における「父祖」の表象。横光のテクストのなかから、「父祖」にかかわる表象をピックアップします。→文字色「blue」を選択。
(3) 同時代における「父祖」の表象。「父祖」の表象を軸に、同時代の文学的、思想的動向を概観します。→文字色「green」を選択。
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  文学散歩 (第8回研究集会翌日)
2007年8月26日(日)
宇佐周辺